吉本せいの生涯から死因まで?朝ドラわろてんかのモデルで家系図は

みなさんこんにちは。

朝の連続テレビ小説では、『わろてんか』がはじまりました!!

主演は葵わかなさんで藤岡てん役です。

そして、この主役の『藤岡てん』という人物は吉本興業の創始者である『吉本せい』さんということです。

 

そこで、今回はその吉本せいさんについて調べてみたいと思います。

吉本せいさんと検索すると、生涯や、死因、そして家系図など出てきました。

 

もしかしたら、ドラマのネタバレになっていくかもしれませんので、知りたくない人はご注意ください。

 

っというわけで、今回はその辺について、まとめてみたいと思います!!

 

 

 

吉本せいさんの生涯

 

ヒロインは吉本興業創業者の『吉本せい』さんです。朝ドラで演じるのは葵わかなさんです!!

 

出展:http://co-family.net/4845.html

 

 

 

プロフィール

 

名前:吉本せい(吉本 勢)

出身地:兵庫県明石市

生年月日:1889年12月5日

没年月日:1950年3月14日

職業:吉本興業創業者、芸能プロモーター

配偶者:吉本吉兵衛

 

 

太物商の次女として生まれる

 

吉本せいさん:兵庫県の明石市で太物商(綿や麻の織物商)を営んでいた林豊次郎とちよ夫婦の次女として生まれました。

 

男6人女6人の大家族で、せいさんが小さいころに大阪に移って、米屋を開いて繁盛したが、その陰にはせいさんの存在があったからだとか。

 

米屋でのせいさんの様子では、店番をしていたせいさんは、少女ながら、升で量った米に「これ、おまけ」と小さい手で米をちょっとつかんで入れて、その姿におかみさんたちにも大好評だったそうです。

 

「おおきに、また買いにくるね」

と、みんな笑顔で帰っていったそうです。

 

この頃から商売の才能があるようですね。人の喜ぶことをやるという考え方なのでしょうね!!

 

 

一方学業の方も小学校では、成績優秀で、北浜で「金づくりの名人」と言われた米殻仲買人の徳島蔵方に女中奉公し、持ち前の愛嬌や機転の良さで徳蔵に気に入られる。

 

炊事・洗濯・裁縫・お稽古までさせてもらう特別待遇を受けます。

 

しかしながら、それは女中仲間からねたまれて、いじめを受けるようになります。

 

せいさんは柳の風のように受け流しました。

 

人間関係に関しても、喧嘩をして勝つとか、泣い逃げるとかではなくて、上手にやり過ごすというところがすごいですね!!

 

 

感心した徳蔵は「この子は商いができる」と見抜いて、商法のコツを教えました。これが、吉本興業を創業するにあたっての基盤になったのかもしれないと思いますね!!

 

人に気に入られて、コツを教えられたりして、成長していくという感じですね!

 

結婚

 

出典:http://co-family.net/4845.html

 

1910年に両親に両親に勧められて、大阪の荒物問屋(荒物とはほうき・ちり取り・ ざるななどの家庭用品)の「箸吉」の息子・吉本吉兵衛(通称:吉本泰三)と結婚します。

 

箸吉は評判の老舗や、泰三も真面目な働きもんやそうや

 

わろてんかではお笑いこそ人生の薬と言ってせいさんに笑いを届けるという役でした。

 

夫、吉兵衛さんは1924年(大正13年)に死去。結婚14年(せいさん34歳)のことだったそうです。

 

出典:http://co-family.net/4845.html

 

と父親から聞いていたそうですが、実際は違って典型的な金持ちのボンボンだったそうで、ひいきの女芸人にお金を入れあげて浪費していたそうです。

 

自分自身も、芝居だの剣舞に凝っていて、商売をほったらかしにして舞台に上がったり、地方巡業にまで加わって家をあけるということもしょっちゅうだったそうです。

 

のちのせいさんはこう語っています。
「私の初仕事は借金取りへの言い訳です。」

 

これは、朝ドラではお見合い相手の高橋一生が演じる伊能栞になるんでしょうかね?

 

どんなに仕事をするように言っても、夫はまったく聞かなかったそうです。夫婦げんかも日常茶飯事だったということです。

 

 

借金地獄からの逆転

 

 

夫が仕事をしない結果として、借金地獄にあえぐということになります。

 

夫婦喧嘩に疲れ、せいさんは請求書の束を抱えて夫に言います。

あんさん、そないに芸事がお好きでしたら、ふたりでコヤ(興業する建物)を持ちまへんか」と泣きながら言ったそうです。

 

それがきっかけとなり、

1912年、夫婦で天満八軒の1つでもある「第二文芸館」を手に入れることができて、寄席営業をはじめることになりました。

 

 

 

ちなみに天満八軒は飲食店やお土産やが8軒並んだことから大阪の人はそう呼んだそうです。

 

はじめてみたものの、名のある芸人が演じてくれるはずもなく、最初はさみしい状態だったようです。

 

 

せいさんは夫と付き合いがあった芸人を頼って、無名の芸人を集めました。コヤでやれるだけでと喜んで熱演してくれたそうです!!

 

 

入場料は、一般的なコヤの3割程度にしました。

結果的にコヤは大盛況だったそうです。

 

これも、値段を高くして儲けようではなくて、気軽に来てもらいたい、喜んでもらいたいという思いあったように感じます!!

 

そして、全国的に活躍する芸人が育っていきました。

 

1913年に吉本興行部(後の吉本興業)を設立しました。

1948年に吉本興業合名会社(1932年に設立)から吉本興業株式会社に改組して、会長に就任しました。

 

 

 

吉本せいの家系図とその後

 

出典:https://www.kagasyo.com/%e5%90%89%e6%9c%ac%e3%81%9b%e3%81%84_%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e5%9b%b3/

上記のサイトで、家計図がきれいに作られていたので引用させていただきました。

 

せいさんは夫の泰三との間に8人の子を産んでいます。

男2人、女6人です。

 

そのうち5人は早世でした。

 

成長した、たった一人の男の次男、吉本穎右(よしもとえいすけ)も病弱気味だったそうです。

 

吉本の御曹司の穎右は、大阪歌劇団(OSK)で活躍していた、戦後にブギの女王などと呼ばれた「笠置シヅ子」と大恋愛をします。本名は亀井静子だそうです。

 

吉本せいは、たった一人の男児である穎右を溺愛するあまりに、恋愛を許しませんでした。

 

出典:http://chulapan.com/5189.html

 

恋愛は許されなかったのですが、笠置シヅ子はすでに身ごもっていました。

ですが、穎右は昭和22年5月に24歳に病死しました。

 

 

笠置シヅ子は、女児を産んで未婚の母親となりますが、もちろん父親のことは知りません。

そして、父親穎右の名前をとってエイ子と名付けました。

 

せいさんには、唯一の子孫と呼べる、亀井エイ子という孫が一人いることになります。

 

 

 

死因は?

 

 

1950年には、戦後間もない時期になりますが、肺結核で亡くなっています。

 

このとき、吉本せいさんは、60歳ということになります。

 

吉本興業という大きな会社をコヤという小さなものから立ち上げて、38年後ということになりますね。

 

子供の頃から商売の才能に恵まれて、夫や借金にも苦労した、まさに激動の人生といえるでしょう!!

 

 

まとめ

こうして、吉本せいさんの生涯を見てみると、ドラマや映画になってもおかしくないすごい人生だなと感じます。

 

肺結核もこの当時は、簡単には治らない危険な病気だったのでしょう。

 

子供にも恵まれないようでしたけど、亀井エイ子さんという孫が存在するようですね。

 

この方についても今後調べてみたいと思います!!

 

朝ドラも、また違う形で楽しめるのではないでしょうか!!

 

っというわけで、今回も最後まで読んでいただきましてありがとうございました!!

 

 

参考サイト

 

吉本せいの生涯!夫や家系図は?わろてんかモデルは吉本興業創業者!  知りたがり夫婦の交換日記

 

吉本せい - Wikipedia

 

吉本せいは吉本興業の女興行師!その生涯と死因に迫る!

 

 

参考サイト様ありがとうございました!

 

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